2013年10月16日水曜日

英語教師に対する差別

英語は英語のネイティブスピーカーに習いたい、という考え方があります。これが発展すると、英語は英語のネイティブスピーカーにしか教えられない、という考え方にもなります。この立場をthe native speaker fallacyと言います。Fallacyは誤った考えという意味です。

英語教育学では、the native speaker fallacyは各国に存在するとされています。つまり、「英語は英語のネイティブスピーカーに習いたい」という気持ちは世界中にありますが、これが発展すると「どんなに英語が上手でも、ノンネイティブの講師には習いたくない」という立場にもなります。これを偏見といいます。この偏見が更に発展すると「どんなに英語がうまくても、あの先生はノンネイティブだから習わない」と考え、その授業に出席しない、あるいはその先生の学校に行かないという行為に及ぶ事があります。この行為は差別になります。ノンネイティブを日本人と置き換えて、日本人講師が教える英語の授業は嫌だと考えると偏見になり、日本人が教える学校に行かないと人種差別になります。整理すると、感情は偏見、行為は差別、特定の人種を指した差別を人種差別といいます。

日本人の生徒が日本人の英語講師を差別する事はあります。「先生は英語が上手だし、先生に習えば英語が上達すると思うけれど、先生は日本人だし、やっぱりネイティブスピーカーの先生に習いたい」と考えると、それは偏見になります。「どうせ習うならネイティブスピーカーに習いたい」と思い、その先生の授業にでないと、人種差別になります。

人種は社会学的にはあいまいな言葉なのをご存知ですか?Thioは「人種を厳密に定義するのは困難である」と述べています(1986, p. 217)。両親の人種が違うと、その子供はハーフになります。その子供の子供はクオーターといいます。では、その子供の子供の子供は何ですか?アメリカ英語ではもう用語がありません。


Reference

Thio, A. (1996). Sociology and introduction. New York: Harper & Row.

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